愛しく想う笑いについて

静岡にある実家に帰省した時のこと。

 

実家に到着したのは22時過ぎだったので、末っ子は既に床についており、次男坊は夜の街へと出かけていた。母親だけがぼくを温かい部屋に迎え入れてくれた。

居間には、狭いスペースに不釣り合いな大きいテレビがどんと置いてある。一人暮らしの自分の家にテレビがないぼくは、帰省するたびにこのバカでかいテレビに少し感動し、番組を適当に観る。

 

この時は『志村けんのだいじょうぶだぁ』が放送されており、母親と2人でユルユルと観ていた。番組内ではちょうどドリフターズメンバーである志村けんさん、加藤茶さん、高木ブーさん、仲本工事さんが勢揃いしており、生粋のドリフ世代であった母親は少し興奮気味に「懐かしいねえ。」と呟いていた。

すでにドリフのメンバーは高齢者といえる年齢になっており、フンガフンガと喋る高木ブーに対して、フンガフンガと答える仲本工事の絵面はなかなか胸にくるものがあった。

 

番組の後半では、志村けん加藤茶が新しいコントを披露していた。正直言って、昔のようなキレも盛り上がりもなく、同じボケを少しずつ変えたいくだけの流れは見ていて退屈だった。母親も同じことを思ったのか「懐かしいねぇ。」と呟くばかりだった。

しかし、ぼくも母もチャンネルを変えようとせず、食い入るように2人のコントに集中した。そして不思議なことに、そのクソつまらないコントに対してわざと笑っていた。いわゆる愛想笑いというものだった。

愛想を振りまく相手はテレビの向こう側にいるというのに、この笑顔に一体なんの意味があるのか。

 

考えてみるに、母にとって、笑いの原点はドリフだったに違いない。当時、ぼくはまだ生まれていなかったが、母親世代のドリフ人気度は天井知らずだったと聞く。

そんな親の元で育ったぼくらの世代もドリフターズという言葉は知っているし、「8時だよ!全員集合」という番組があったことも知っている。知っているどころかわざわざ動画サイトで検索したり、レンタルビデオ店で借りたりして観るほどだ。

 

おそらくだが母親のドリフへの飽くなき敬愛が、子であるぼくにも伝達した故の行動だと考えられる。親の影響は大きい。

 

つまりぼくも、そしてぼくの母親もドリフが好きで、面白くて人気のあった時代を知っている。ここで起きた愛想笑いは、誰に気をつかうわけでもない。これまでたくさんの笑いをくれたドリフのメンバーを、コントを、愛しく想って笑っただけである。

「クソつまんねえ。」と一蹴することもできた現在のドリフターズをぼくも母も未だに愛おしく想っている。

 

そう考えれば、普段から使われる愛想笑いというものも、そんなに悪いものではない。相手を傷つけたくない。いつまでも相手を好きでいたいという愛の込められた笑顔をもっと振りまいていこうじゃないか。

靴を買うタイミングについて

「良い靴を履きなさい。良い靴は素敵な場所へ連れていってくれるから。わかった?」

 

小学校の頃の担任教師だったか、はたまた母親だったのか定かではないが、この言葉を言われた小さい頃の自分は妙に納得したことを覚えている。

 

ここ4年間、新しく靴を買った覚えがない。持っている2足の靴のうち、スニーカーは学生の頃に購入したものだし、ブーツに関しては大学入学を祝って両親がプレゼントしてくれたものだから履き続けて6年になる。

 

物持ちが良いとも言えるが、ボロボロの靴を履いているため(特にスニーカーはボロ雑巾みたいになっている。)かなりの確率で周りの人から「靴買いなよ〜」と言われる。

 

足元に視線を落とすたびに顔をのぞかせるくたびれたスニーカーは、お世辞にも素敵な場所へ連れていってくれるとは思えない。

 

けれどもまだ履けるのである。自分で言うのもなんだが臭くもないし、穴もあいていない。ただ表面の生地だけが、色褪せ、黒ずんでいる。しかし履ける。

ウソップ(ONE PIECE登場キャラクター)風に言うのであれば「こいつはまだ走れる」のだ。それを出会ってから日も経っていない知人レベルの人間に「ボロボロだから買い替えなよ」などと言われれば、こちらも良い気はしない。なんだかこの文章を書いていて腹が立ってきた。

 

話が逸れてしまったが、世の中の人たちはどのタイミングで、どういった気持ちの踏ん切りをつけて、靴を買っているのか気になって仕方がない。

自分の人生を足元から支え、色々な場所に連れていってくれた、様々な人と出会わせてくれた相棒との惜別をどのように乗り越えてきたのか。知りたい。

ぼくは未だにこの船から降りられずにいる。沈みゆく船かもしれない。もうこいつに意識はないのかもしれない。けれども、数年間毎日のように顔を突き合わせてきたこいつとの別れのトリガーが、見ず知らずの何気ない言葉で良いはずがない。

 

少々靴ごときに感情的になりすぎた気もする。

しかし、本日3月15日は「靴の記念日」である。 ちょっとくらい靴に対する感謝の想いがあっても罰は当たるまい。

吹けば飛ぶような大和魂について

【いきなり外国人に、日本語で話しかけられても、人は英語で返してしまう説。】

唐突な文章で始まってしまい申し訳ない。しかも太字で表示されているものだから余計に驚かれたことと思う。けれども聞いてほしい。

僕ら日本人は時々、外国人観光客に話しかけられることがある。ありがたい話である。遠い海の向こうからはるばるこんな島国へと足を運んでくれているのだから、無論歓迎したい。しかし、どういうわけか相手方が日本語で話しかけてきてくれるにもかかわらず、英語で返そうとしてしまう時がある。 これはなんともしがたい問題である。

大学時代、同じサークルの仲間たちで卒業旅行へ行こうという話になった。行き先はセブ島。恥ずかしながら、人生で初めての海外旅行であった。現地のホテルに到着した際、照りつける暑い日差しをよそに、ホテルマンはニコニコしながら荷物を部屋まで運んでくれた。部屋に行くまでの途中、なんの世間話もないのではつまらないのかと気を回した彼は、ペラペラと英語で話しかけてくる。

大学受験以来、英語と触れ合ってこなかった僕には、彼が何をしゃべっているのかサッパリ分からなかった。

けれども我々は日本語で対応することなく、必死に辞書とケータイを駆使して、なんとか不格好な英語で対応した。「Please speak slowly…」と「One more please…」にはよくお世話になった。

以上のように私たち日本人は、海外旅行に行った際に慣れないながらもその国の言葉を使う。郷に入っては郷に従う。反対に海外から日本に来る人々も当然日本語を使ってどうにかコミュニケーションを試みる。(たまに徹底して自分の国の言葉しか使わない方もいるが、今回は説明を省く。)その国で使われている言葉でもって、現地の人々と心を通わす。これが未知の国へと訪れる醍醐味のひとつだろう。

ここで本題に戻る。

私たち日本人は観光にきた外国人に日本語で話しかけられても、どうしてか英語で返答してしまうことがないか。

「ない。消え去れ。」という方は日本橋にあるかつお節の老舗「にんべん」の商品リストでも眺めて、健康的な食生活でも目指してほしい。

http://www.ninben.co.jp/product/

日本語で話しかけられているのに、英語で返そうとする。

こんな経験をしたことがある人は、僕を含めて吹けば飛ぶような貧弱な大和魂しか持ち合わせていない。「すみません。こんなへんぴな島国にわざわざ足を運んでもらって。。。」という卑屈で根暗な精神が心の奥底に粘着している。

外国人に対して、過剰なまでに敗北意識を持っているのだ。

日本人は勤勉だとよく言われる。しかし、これは勤勉であることでしか、勝機を見出せないことを意味している。生まれ持ったセンスや才能においては負けを認めている精神性がここに表れている。

これではいかん。

日本を愛しているなら。 日本人としての誇りを持っているなら。 熱き大和魂を胸に刻んでいるのなら。

せめて、日本語で話しかけてくる外国人に対しては、堂々と日本語で対応しなければならない。

この文章を書いていて、思い出したことがある。

「海外の人に『友達になろう。』って英語で言う時は『Join us』でいいの?」と帰国子女の友人に聞いた際、ひどく笑われたのだ。

屈辱的だった。二度と英語は学ぶまいと心に誓った。

繰り返す「卒業」の輪廻について

今週のお題「卒業」。

たまにこうしたお題で書いてみると、視野が広がる気がする。例のごとく書きながら、書きたいことを考えなければいけないのが億劫ではあるものの、とにかく親指を動かしてみることにする。

学校からの卒業

卒業。輝かしくも懐かしい響きである。多くの人がこの言葉を聞いて思い浮かべるのが「学校」ではなかろうか。小学校、中学校、高校、大学、専門学校などなど。どの時分の卒業が一番輝いていたかは、人によって違う。「卒業式で感動したことなんて一回もない。」というスーパードライモンスター.pdfみたいな人物もいるだろう。

アンジェラ・アキからの卒業

さて、学校からの「卒業」から更に連想していくと、アンジェラ・アキの「手紙〜拝啓 十五の君へ」という卒業ソングに辿り着く。これは人によって異なるかと思うが、今回この記事をご覧になられている方は全員アンジェラの「手紙」に辿り着くものとする。

「聴いたことねぇし!」という方は、親切心で下記にYouTubeのリンクを貼り付けておくので聴いておくように。

youtu.be

さて、ここからは全員がアキの「手紙〜拝啓 十五の君へ〜」を視聴済みであることを前提に話を進めていこう。

この曲は良い。リズムが良い。歌詞も素敵だ。YouTubeのコメント欄なんか見てると、様々な人が感想という名の自分の物語を綴っている。それを読んでみるのも良いだろう。「ラーッラーッラッ」のメロディラインなんかは口ずさむだけで、あまりの気持ちの良さに口から喜びを感じることができる。

数ヶ月前の僕はこの「手紙」という曲をヘビーローテンションしていた。まさに「自分とは何で、どこへ向かうべきか、問い続ければ見えてくる」という状態の中にいた僕にとって、この曲は耳を伝って全身に染み渡った。眠れない夜もあった。苦くて甘い今を生きていると言っても過言ではなかった。しかし、何回も何十回も聴いていると、自分が抱えていた悩みのようなもがスウッと消えていった。

不思議なことに、それと同時進行するかのようにして、この曲も聴かなくなっていった。アンジェラ・アキからの卒業である。あれだけ声をビブラートにして、どこまでも伸びるような声を真似して歌っていた「手紙」を知らず知らずのうちに卒業していたのである。

次の話題に移ろう。

新垣結衣への入学

『くちびるに歌を』という映画をご存知だろうか。先に触れた「手紙 ~拝啓 十五の君へ~」の作者アンジェラ・アキ五島列島の中学校を訪ねるテレビドキュメンタリーをもとに中田永一が書きおろした、青春小説だ。

kuchibiru.jp

この小説を映画化した作品の中に、美人訳ありピアニストとして新垣結衣が出演している。ここまで書くと、察しの良い皆さんはもうお気づきかもしれない。僕はこの映画をきっかけに新垣結衣という女優に入学した。今風に言うのであれば入信した。

正確には、ドラマ『マイ☆ボス マイ☆ヒーロー』以来2回目の入学である。

http://www.ntv.co.jp/boss/images_wallp/mb1_800_600.jpg

しかし、前回はアッという間に卒業してしまった。ドラマの終了以降、新垣結衣との接触時間が激減したためである。(この表現に怒りを覚えた人がツイストダガーナイフをこちらに向けてくることを承知で書く。)だが、今回は違う。時期的には『くちびるに歌を』を観終わった後にちょうど『逃げるは恥だが役に立つ』という新ドラマが始まった。これにより、新垣結衣との接触回数は維持されるどころか増加の一途をたどった。(どうかそのツイストダガーナイフをおさめて最後まで僕の話を聞いてほしい。)

新垣結衣と触れ合う時間はその後もバラエティ番組への露出や雑誌の表紙などを通じて増えていった。しまいには『空飛ぶ広報室』という新垣結衣主演ドラマを偶然観てしまい、新垣結衣からの卒業は遥か彼方へと吹き飛んで行った。「次は何を見れば良い。”新垣結衣 〇〇”の〇〇に入る検索ワードを教えてくれ!」という興奮状態の中にいた。

新垣結衣からの卒業

小学校が6年、中学校が3年で卒業を迎えるように、どれだけその場所が好きだろうが、嫌いだろうが、いずれは卒業する時期がやってくる。当然僕と新垣結衣の蜜月もやがては終焉を迎えることになる。(どうかその固く握り締めたツイストダガーナイフを鋭利に研ぐのはやめてほしい。)

新垣結衣バナナマンと一緒にやっている超昔のコント番組にかじりついていた時には、もう一生卒業できないかもしれないなと思っていた矢先、急激に環境の変化が起きた。簡単に言うとめちゃくちゃに仕事が忙しくなったのである。それからというもの新垣結衣と僕が顔を合わせる時間は限りなくゼロに近づいていった。(わかった。もうそのツイストダガーナイフで僕を突き刺してくれ。)

卒業という輪廻

「接触時間」というのは、その記憶や感情を高ぶり揺さぶることに最も適したツールのひとつである。だからこそ、悪手を打ってしまえば逆に卒業生を大量に生み出してしまう可能性もある。そうした玉石混合のマーケットの中で僕たちは生きている。だからこそ、この入学と卒業の繰り返しが輪廻のように続いていくことだろう。

僕たちは新たな出会いへの希望と、いずれ来る別れへの寂寞を胸に日々を生きていかなければならない。

最後に()の中のテキストを書くことを楽しんでいた僕を許してほしい。なんなんでしょうね、この駄文。終わりです。

こびりつく言葉の呪いについて

ある日、静岡に住むホームレスみたいな格好をした友人と箱根にドライブをしに行った。友人はベテランホームレスのような格好をしているので、服も汚ければ、髪も長い。ストレートの長髪はまだ許せるが、天パである。天パで髪が長いことはそのまま不潔に直結する。

そんな友人と旅の休憩がてらに寄ったコンビニ店内は、ちょうど正月ムードが終わろうとしているのか、埃をかぶった鏡餅がそこら中にぐでんと転がっていた。コンビニで友人はカレーまんを、僕はハイチュウを購入した。

 

不潔街道を驀進する友人とコンビニの前で煙草を吸いながら、カレーまんとハイチュウをそれぞれ食べる。男同士の会話にたいした話題が存在しないことは言うまでもないが、せっかくの箱根旅行である。旅のお供に会話に華でも咲かせようかと思い、ふと友人の方へ目をやると、髪の毛にべったりとカレーまんのカレーが付着していた。

荒波のようなにうねるきったない長髪に、カレーが付いているというのは何とも形容しがたい不潔感がある。卵にマヨネーズをかけて食べることを「卵に卵かけてどうすんのよ。」と罵倒する人がいるが、この場合は「不潔に不潔をかけてどうすんのよ。洗いなさいよ。」と罵ってやりたい気持ちだった。

 

だが待とう。後出しのようになってしまってすまないが、彼はここ数週間、休むことなく馬車馬のように働き、自分の身なりを気にする余裕がないほどに心身を疲弊させていた。やっとこさできた休日という貴重な時間を、僕との箱根旅行にあててくれる優しいやつである。ここは慎重に言葉を選び、彼の自尊心を傷つけることなく髪の毛にカレーが付いていることを指摘せねば友人失格だろうが。

 

そんな僕が頭を1万2000回転させて発した言葉は「お前、頭にウンコカス付いてるよ。」だった。しまったと思った。

 

友人が足元から崩れ落ちるようにして、倒れこんだのも無理はあるまい。

「お前、ウンコカスはないだろう。」と友人は言った。

「ティッシュ。とって。」

急いで僕は車へ行き、モイスチャーティッシュを彼の元に届けた。

 

それから数日、ことあるごとに彼は「ねぇ、俺の頭にウンコカス付いてない?」と悲しげなメッセージを僕に送ってくる。言霊の力とは恐ろしく、何気なく発した言葉が相手に深く突き刺さり、心にこびりつく呪いのようになってしまう。彼はもう暫くウンコカスという呪縛から解き放たれることはなく、僕もまたその呪縛の餌食となってしまっているのだろう。

 

こうした言葉による呪いは、忘れているようでふとした瞬間に顔を出す厄介な性質を持つ。何でこんな言葉覚えているんだろう、ということがある方も多いかと思う。Perfume風に言わせていただくならば「何年も忘れてたことが、何かの拍子、急に思い出す。」である。

 

こうした言葉による呪いは、言葉でしか解くことはできないのかもしれない。ちなみに僕が今でも思い出す言葉の呪いは「お前の耳たぶでかすぎるだろ。」です。その度サッと耳に手を触れる。

ニコニコ動画の衰退について

仕事の休憩中に、なんとなくニュースサイトを見ていたら飛び込んできた「ニコニコ動画、初のプレミアム会員数減少」という見出し。

ニコニコ動画に出会ったのはたしか14歳の頃だから、かれこれもう10年以上お世話になっている。世間では殿様商売・オワコンなどと揶揄されてはいるが、なんだかんだでニコニコ動画は終わらないだろうと思っていた。これからも当たり前のように続いて、当たり前のようにわるくちを言われて、ユニークなコンテンツを作り続ける基盤として存在していくものだと思っていた。

けれども、それはただの思い込みだった。いよいよ本格的なニコニコ動画衰退の時期がやってきたのかもしれない。

「親族がある日突然、重い病気を宣告された時に湧き上がる浮遊感」が玄関からのっしのっしと入ってきた。

「長年つるんできた友人と金銭トラブルで疎遠になってしまった時の悲しみ」が退屈そうな顔をしながら椅子に座っている。

「高校時代の元カノが結婚して、子供もいて、マイホームまでもっているという現実を突きつけられた時の虚無感」が満面の笑みで肩を組んでくる。

そういえば最近、まったくニコニコ動画のランキングを見ていなかったので久しぶりに見てみると『けものフレンズ』なるものに関する動画が上位を占めていた。その他もアニメに関する動画ばかり。。。一体これはどうしたことか。 キヨやレトルト、アブ、p-p、つわはす、にしむらひろゆき、MSSP、recog、その他にもバンジョーとカズーイの実況が面白かったダンディボイスの人、MADとか替え歌が面白カッコよかった人、などニコニコ動画で活動していた人たちは今どこにいるのだろうか。youtube?全国コンサート?それとも社会人生活に尽力しているのか。家庭を持つようになったとか?

幕末志士が帰ってきて、これからより一層盛り上がるかもしれないという淡い期待は、粉々に砕け散った。この寂寞の想いをどうすれば良いものか。

おそらくこのニュースの反響から推察するに、今後も「プレミアム辞めようと思っていたけど忘れていた勢」や「ニコニコ動画はもしかして魅力ないのかも?と思ってはいたものの踏み切れなかった勢」が一斉にプレミアム会員を退会するだろう。

今の時代に匿名性の高いプラットフォームにコンテンツを投稿することがそぐわないのかもしれない。殺伐とした攻撃力の高いコメントがつくだけで、評価されにくい。そもそも見られもしないことが多い。その上月々500円かかってしまう。こんなサービスよりももっと優れていて、優しいユーザーが集まる場所はもういくらでもあるのかもしれない。

作り手も受け手も、より自分にとって居心地の良い体験を求めてニコニコ動画を離れていくのか。

このマイナスな状態をプラスに変えられるだけのプロデューサー的なポジションとして、誰かドワンゴに入社してくれ。そしてまたニコニコ動画を覚醒させてほしい。完全な他力本願ではあるけれど頼む。ぼくはこのやりきれない想いを胸に『けものフレンズ』観ます。楽しみ。

冬の寒さについて

「夏と冬だったら、冬の方が好き。」と言っていたのは中学時代からの腐れ縁であるリサちゃんだったと思う。その理由を聞いてみると「夏の暑さは服を脱いで裸になったとしても暑いじゃん。冬は服を着れば着るほど寒さを防げる。」と彼女は答えた。ぼくといえば、夏だろうが冬だろうが、暑けりゃ夏が嫌いで、寒けりゃ冬が嫌いになる自分勝手な男だった。

今年は最強寒波だと、天気予報のニュースが騒々しく報道していた。

彼女はこの身を裂くような寒さの中でも「服を着れば寒さを防げる。」と言うのだろうか。

*5分間だけ執筆チャレンジなのでここで終わり*